第一六号(昭一二・二・三)
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 西安クーデターの全貌       外務省情報部
 最近公布の法令          内閣官房総務課

 

  西安クーデターの全貌
                      外務省情報部

   一  蒋介石突如監禁さる

 昨年十二月十二日、陝西省の西安で蒋介石が張学良のために突如として監禁されたといふ電報は、全世界を驚かせた。即ち十二月の上旬頃、張学良から部下の将領の統帥に困難な事情があるから訓授を請ふといふので、その請に応じて洛陽から臨潼に赴く途中、華清池温泉に泊つた蒋介石は、十二日の午前三時頃、張学良軍白鳳翔部隊の襲撃を受け、蒋介石を初め陳誠、蒋鼎文、邵力子、朱紹良、銭大鈞等の要人は悉く逮捕され西安に護送監禁されたのであつた。当時遭難地には張学良の軍隊は二ケ師あつたのに反して蒋介石の衛兵は極めて少数であつたので、殆ど抵抗することが出来ず、邵元沖、銭大鈞以下四十余名の将校は死傷したのである。
 張学良は蒋介石を監禁すると同時に、西安綏靖公署主任楊虎城との連名を以て、南京政府に対しその秕政を攻撃し、対日外交の失敗を指摘し(一)抗日の即時実行(ニ)聯露容共(三)中央政府の改組(四)共産軍討伐の中止(五)共産党員等政治犯人の釈放(六)愛国運動の自由恢復(七)言論結社集会の自由 (八)孫総理の政策の実行等の要求を捻出したと伝へられ、一方隴海線の橋梁を破壊して中央軍の来襲に備へたのである。
 なほ十三日、張学良は南京政府全国経済委員会を牛耳つてゐる実力者宋子文に宛てゝ蒋介石の生命を保障する旨を電報した。


    二 事変の原因は何か

 張学良が何故に突然蒋介石を監禁したかといふ真相については、大体、張学良は先に満洲を失ひ、次いで北支を追はれ、一時海外に亡命して帰国後蒋介石から共産軍の討伐を名目に、不毛の奥地陜西に移駐を命ぜられたのであつたが、中央からの軍費の支給も甚だしく不充分であつたがため、共産軍の討伐にも非常な苦心をして居り、その上に事毎に蒋介石の圧迫を受けるので、非常な不満を抱いて蒋介石を恨んで居り、昨年の西南問題の当時は西南派に策応して反蒋運動を企てた程であつた。
 恰も綏遠問題が発生したので、西安から蒋介石に対し抗日容共政党を主張したが、忽ち蒋介石に一蹴されたばかりでなく、却つて共産軍討伐の進捗しないことを指摘され、期限付で共産軍の掃蕩を厳命されたので、張学良の部下の将領、特に新流と称せられて居る赤化分子は益々不平を昂め、反蒋的の空気は漸次濃厚となつて来たところへ、共産軍の討伐成績が挙らないのを憤慨した蒋介石が、張学良軍を改編して中央軍の配下に置くことゝし、蒋介石直系の蒋鼎文を西北剿匪前敵総司令に、衛立煌を西北総指揮に任命し、東北軍を福建省に移駐させることゝなり、十二日にそれが発表される筈であつたので、これを知つた張学良は非常に憤激し、遂に非常手段を以て蒋介石を監禁して人質とし、中央政府に強請してその主張を貫徹しようと企てたのであると観測されて居る。
 なほ張学良は蒋介石に対して抗日容共の実行を要求したが、容れられないので監禁したと云はれて居るが、昨年の十月、蒋介石が杭州から西安に飛来した時に、蒋介石に対して抗日容共政策の実行を迫まり、また蒋介石を監禁した後にも切りにその実行を要求したこと及張学良の任務が共産軍の討伐にあるにも拘らず、過去数ケ月間剿匪を実行して居らず、何れからか金品を得てゐた形跡があると云はれて居り、密かに蘇聯邦と連絡があつたと見られてゐた。彼が屡々抗日聯露を主張して来たことは事実で、早くより新疆の感世才との間に或る種の諒解があり、共産軍との間にも妥協が成立してゐたと噂されてゐたのである。
 尚又事変の前日である十二月十一日には、西安で共産党指導の下に約七千人の大示威運動が行はれ、抗日、聯露、容共のスローガンを高唱した事実があり、事変の直後には周恩来、朱徳等を初め共産党の領袖が多数西安に集まり、周恩来の如きは三度も監禁中の蒋介石に会見したと伝へられ、また寧夏、陜西、甘粛等の省境にゐた共産軍は事変後南下を開始し、十七日には全国各界救国聯合会が上海で大会を開き、張学良の主張するところは民衆の声であるとし学良支持の決議をしたと伝へられ居ること等に依つて、張学良、共産党或は蘇聯邦との間に何等かの連絡があり、事変の背後に赤化分子の策動があつたとの観測も有力である。


   三 中央の対策と各方面の反響

 蒋介石監禁の報は全支那に非常な衝撃を与へた。唯一の指導者を失つた南京政府では、十二日、兇報至るや即時中央常務委員会を開いて協議の結果、応急対発として (一)行政院は副院長孔祥熙に於て責任を負ひ (二)軍事委員会は常務委員を五人がら七人に増加し何應欽、程潜、李烈鈞、朱培徳、唐生智、陳紹寛の六名を常務委員に追加し(前任白崇禧と共に七名) (三)副委員長馮玉祥及常務委員に於て責任を負ひ (四)軍隊の指揮は軍事委員会常務委員たる軍政部長何應欽に於て責任を負ふこと(五)張学良の本職竝に兼職を褫奪し軍事委員会の査問に付しその軍隊は軍事委員会に直属せしむることを決定した。
 更に人心の動揺を防ぐために十三日、各地方市民に対して「政府は通常の措置に出づべく各機関一切の政務は既定方針に基き平生通りに実行すべし、国民は謡言に惑はさるゝことなく業に安んぜよ。唯不逞の徒が機に乗ぜんことを惧るゝが故に軍事委員をして必要の地域に戒厳を宣布せしむ」と発表し、また孔祥熙の名を以て全国将士に宛てゝ「中央党人は公敵に対しては固より決心あり、救国の策としては主権及領土の完成に努力せざるべからず、而してこの目的達成の為には国内の完全なる統一を要す。蒋院長はこの目的に向て邁進し功績顕著なるものあり、然るに意外にも綏遠の決戦酣にして国家存亡の懸る時に当り西安の兇変を見る。支那の前途に関係する所大なり。但し大義を明らかにし愛国心に長ずる我が国民は一致中央及既定方針を擁護して国家の統一を完成し地方長官及中央に忠誠を致し中央と一致の行動をなすべきを確信す。この危機に際して祥熙及中央党人は政務一切を平生通り遂行し蒋院長の既定方針に従ひ国家と共に上下一致最大の努力を以て国家の安全を策せんとす」の通電を発して中央政府及党中央部の態度を宣言した。
 一般の反響は、一部の急進学生、救国会一派及小数の共産党分子の暗躍があつたが、大体に於て全支を通じて張学良の行為に反感を持ち、張学良の遣り方は国家の統一を害し救亡禦侮の遂行を阻害するものであると非難し、中央を支持する大勢となつた。
 即ち十三日には馮玉祥が張学良に宛てゝ蒋介石の即時釈放を要求したのを初めとして、胡宗南、黄杰等百七十余名の全国将領は南京政府に対して学良討伐請願の電報を発し、上海線工会及百余の各種総工会を初め各地方の商工会団体、党部等は中央擁護の通電を発し、馬鴻逵、曹福林等二十八名の師長も張学良討伐令を電請し、また全国新聞界二百五十一社は時局共同宣言を発して中央擁護、蒋介石安全救出、張学良討伐を主張する等各方面に張学良討伐、中央擁護の叫びが挙つたのであつた。
 更に各地方の反蒋的軍閥諸勢力の態度は各方面から注目されてゐたが、広東派の金漢謀等は十三日、事変勃発の報に接するや取り敢へず、国民政府に対し中央擁護の通電を発し、同時に張学良討伐をも電請したが、その後態度を変じて何應欽の討伐に反対の態度を求するに至つた。また広西派の李宗仁、白崇禧等は十三日に李宗仁が何應欽に宛てゝ地方の防備及大局の維持に尽力すべしといふ電報を送つたに止まり、張学良の処分等に関しては何等の意見も示さず、張学良との間に何等かの策応があるやうに見られたが、果して十四日には金漢謀その他隣省の主脳者に対して雲南、湖南、広東、広西及四川の五省聯防を主張する等、頻りに陰謀劃策を企てる模様であり、若し事変の解決が長引くならば他の省にも変乱勃発の惧れがあるやうな形勢を示した。


    四 討伐と妥協工作

 南京政府は十三日政治会議で張学良の懲罰を決義したが、更に十六日の中央政治委員会に於ては張学良の討逆令を発し、愈々張学良討伐を決議したのである。かうした中央の強硬な態度は蒋介石の生命を危険ならしめる結果となるのであるが、中央としては軍政各部より討伐の請願があり、一方に四川、広西方面の形勢が切迫して引延を許さない情勢となつたので、蒋介石の身辺を顧慮する遑がなく遂に討伐令を出したのであると云はれて居る。而もこの討伐令の出るまでの中央党部内の事情は、蒋介石派の中でも、何應欽、張群、載天仇、居正等は討伐を主張し、孔祥照、宗子文、宗美齢夫人等は妥協を主張し意見の対立を見たのであつたが、十二日の常務、政治両委員会聯席会議では討伐論が優勢となり、更に陳果夫、陳立夫兄弟が何應欽を支持して孔祥熙一派の妥協説を押へ、遂に十六日の中央政治委員会に於て討伐令を決定したものであると伝へられて居る。そして国民政府令を以て十二月十六日附何應欽を討逆総司令に、同十七日附劉峙及顧祝同を夫々討逆軍楽東西両路集団軍総司令に任命した。
 斯くて十八日頃、中央軍は華陰地方に続々と集中され西安を包囲するの姿勢を示したが、然しこの間に内外からの妥協工作が進められ、嘗て張学良の顧問であり最近は蒋介石の秘書となつて居る英国人ドナルドが南京政府に対して妥協斡旋を申出で、十四日には西安に飛行して蒋介石の生存を見届け、これが妥協工作の端緒となつた。また張学良も通電の反響が意外に不利であり、且中央の態度が強硬で而も全国的に討伐の叫びが挙り形勢非であることを知つて妥協に傾き、十六日、西安に監禁した蒋鼎文に「十九日までには帰還し得る見込みに付、西安攻撃を中止すべし」といふ蒋介石の書簡を持たせて洛陽に帰し、蒋介石の生存を報告させたのであるが、これで蒋介石が生存して居るといふ事実が明らかとなつたので、南京政府は十九日午後六時まで、一時中央軍の攻撃を中止する命令を出して妥協工作の進行を待つたのであつたが、十九日に至つても蒋介石が帰らないので、既定方針に伐つて討伐を決行することゝなり、二十三日の中央政治委員会では林森主席の叛逆処置法案が提出せられ、討逆総司令何應欽をしてこれを実行させることを決議したのであつた。
 然しこれに先だつて二十日、宋子文は蒋介石帰らずと見るや、政府の命令に依らず全く個人の資格で西安に飛行して張学良との間に妥協工作を進め、更に二十二日には宗美齢夫人、ドナルド及蒋鼎文を同伴して再び西安に飛行し、遂に二十四日妥協は成立し、蒋介石は釈放され、越えて二十六日全国の熱狂的な歓呼に迎へられて南京に帰つたのであつた。
 これより先、蒋介石は十二月二十五日西安出発前、張学良、楊虎城南氏宛次の如き訓話を為した由である。「今次の西安事件は実に中国民族存亡の懸る大事件である。然るに汝等両人は今国家の大局に醒め、何等特殊の要求もせず余を帰京せしめんと決心したのは過を知つて之を改むる者であつて余の部下たるに恥ぢない。汝等は反動派の煽動に依つて余の汝等に対する待遇不公平或は革命に不忠実なるが如く誤解した様であるが、余の一年来の日記約六万余言、両三ケ月以来の公私電文手記四五万言及政策に関するもの約十万余言を見よ、一字一句たりとも国家を棄て私利を計つたものがあるか。余は常に部下に対し、余が国家を棄て私利を計つた場合は国家の罪人として余を殺せ、余の言動にして苟も国に不忠実なるものがあつたら我を敵として直ちに殺害せよとの二点を訓示して来た。前記各書面中に若し右の如きものがあれば、余は猶汝等両人の手中に在る今直ちに余を銃殺せよ。
 今回の事件は中央に於ては何等責任はない。只余の軽率に基く所であり、且部下の過失は上官の過失なれば余は帰京後中央に対し引責罪を請ふべきは勿論、汝等の罪も許すべからざるものである。唯汝等の早きに及んで過を改め事件を拡大せしめなかつた点は中央も良く諒解して寛大の沙汰に出づるであらう。余が汝等の強要した要求に対し総て署名を拒否したのは、唯国家を救はんとする一念に出でたものである。蓋し四億の人民を代表する余が部下の非道に屈することは中華民族人格の滅亡を意味するが故である。汝等は此の意味を良く部下に伝へ、余と共に絶対に中央に服従し其の決定に従ひ共に非常時の国運挽回に努力せん事を望む。云云。」
 更に張学良が蒋介石を釈放したのに対して如何在る条件で妥協をしたか、其の内容は不明であるが、伝へられるところに依れば、(一)張学良の生命の保障 (ニ)抗日政策の強化 (三)中央政府の改組 (四)内戦の停止 (五)東北軍の待遇改善等であるといふ。


   五 蒋介石の帰還と其の後

 二十六日南京に帰つた蒋介石は、直ちに一切の公職を辞する旨を申出でたのであるが、二十九日の中央政治委員会では蒋の復職を決議した。然るに蒋介石は三十一日重ねて辞職を申出でたので、政治委員会は重ねて慰留すると共に一ケ月の休暇を決議したが、蒋介石は依然として辞職を固執し、一月二日、奉化に引き籠つて休養して居る。
 また張学良は、罰を待つて一切を中央及蒋委員長に聞くといふ服罪帰順の態度を示して居るので、二十九日の中央政治委員会では「軍事委員会をして法により処罰せしむる」ことを決議した。この決議により三十一日、高等軍法会議は「徒刑十年竝に五年間の公権褫奪」の判決を下したのであつたが、蒋介石の国民政府に対する特赦発令方懇請があり、政府では一月四日附を以て「特赦す。但し依然軍事委員会に交付して厳に管束を加ふ」といふ命令を出して張学良を救つたのである。
 斯くて全支を騒がし、更に全世界の耳目を聳動させた西安クーデターも、張学良の妥協に依つて表面案外簡単に片付いた様であつたが、今尚西安に蟠踞して居る学良の部下于学忠、王以
等を初め、該地綏遠主任の楊虎城一派等は各々代表を中央に派遣して種々画策中と伝へられて居り、本事件を中心とする支那政局今後の推移は容易に予断し難い。