第一二号(昭一二・一・六)
 皇室の御近状 宮内大臣官房総務課謹記
 海運国策に就て           逓 信 省
 昭和十一年の国際政局の回顧     外務省情報部
 最近公布の法令           内閣官房総務課

 

昭和十一年の国際政局の回顧 外務省情報部

        外交的危機の頻出

 不安と憂憾を含んだ儘すべての議題を次年度に持越したこと昨年より甚だしいことなく、いはゆる一九三六年の国際非常時は恐怖、猜疑、危機を孕んだ儘そつくり本年に移牒されることゝなつた。
 斯様な意味で一九三六年の国際議題をざつと一瞥すると、(A)軍縮問題、(B)独逸軍のラインランド進駐、(C)伊のエチオピア併合、(D)モントルー会議、(E)仏蘇提携と独伊の接近、(F)スペイン内乱と人民戦線対ファッショ・ブロック先鋭化、(G)金本位ブロックの崩壊、(H)大陸諸小国の動向、(I)モンロー主義の更生、(J)日独防共協定と西安事変など十指を屈するに足る。以下順を追うてこれらの諸問題に再検討を試みよう。

        (A)軍縮問題

 一月六日再開された倫敦五国海軍会議は同十五日の日本の脱退通告、二月二十七日の伊の署名留保に依り三月二十五日の英米仏三国の署名で幕を閉ぢた。次いで新海軍協定に則つて、五月二十日英蘇間に海軍交渉開始され、七月二十八日英蘇間一千万磅信用協定成立と共に、同三十一日附英蘇各紙は海軍協定に関し両国間に了解が成立した旨を伝へた。而て更に英国は九月十五日より瑞典、諾威、丁
抹及芬蘭の諸国に対しても同様の交渉を開始し海軍々縮の実現に努力した。尚一九三〇年倫敦条約の
失効に拘らず同条約の規定に依り無期限に効力を有する第四編潜水艦使用制限規則に関し作成された
調書が十一月六日関係国間に署名を了し、伺二十三日に至り独も之に参加したる事実は、国際協力の
困難となれる今日の情勢に於て、殊に斯の如き人道的原則に対する参加の勧誘が最初の成功を収めた
ものとして注目に値するであらう。

          (B)  独逸軍のラインランド進駐

 一昨年三月十六日の再軍備宣言以来正に一週年を閲した三月七日、独逸はロカルノ条約の破棄を宣
言し(一九二五年十二月一日署名)突如ラインランドに兵を入れた。前回に於ては列国が聯盟規定の軍
縮の約束を履行しないから、独も亦条約の軍事制限条項を遵守する要なしと謂ひ、今回は新たに仏蘇間
に締結された相互援助条約がロカルノ條約を事実上無効に帰せしめたことを理由とせるものである。

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三月七日独軍ライン進駐の報に接するや、翌八日仏白両国は独逸の條約違反を指摘して聯盟に提訴す
るとゝもに、英仏白伊は同十九日所謂四国協定案を作成して独逸に交付し、ライン問題を外交々渉に
依つて解決せんことを慫慂し、英国が独仏間に立つて斡旋に努めたが、議容易に纏らず、交渉は一
時停頓の状態に陥つたが伊エ紛争事件の落着を待ち、英仏白代表は七月二十三日倫敦に会合し、所謂
新ロカルノ会議を開催することゝして、招請状を発し独伊も参加を受諾して愈々十二月より会議を開
催することゝなつたが、十一月五日のイーデン外相の下院に於ける説明を見ても、折衝の前途は多く
の波瀾含みが予想される。
 ヴェルサイユ条約によると、独逸はラインランドに於て兵力の永久又は一時の駐屯を禁ぜられて居
り、軍事演習さへも出来ないことになつて居る、而て若し之に違反したる時は「ヴェルサイユ条約署
名国に対し敵対行為を為し且世界の平和を攪乱するものと看做される」ことになつてゐる。以前には
独逸が賠償の支払を怠つたといふだけで仏国はラインランドに兵を入れたものである。賠償などに比
して遙かに重大なライン武装禁止の条項に対しては直ちに制裁が行はれさうなものであるに狗らず、
専ら外交的交渉に依つて問題の解決を企図してゐるところに聯合国の結束の固かつた戦争直後と今日
とを比較して、そこに状勢の多大な変化が認められる。尚独逸としては昨年九月の第八回ナチス大会
に於て強調された植民地要求問題が如何なる態で提出されるかも注目の的となつて居る時に、十一月
十四日ヴェルサイユ条約による国際河川条項廃棄に関する覚書を関係国に提起せるが如き依然たる押
しの強さを示してゐる。更に七月二十五日率先アヂス・アベバ駐箚独公使館を総領事館に格下げして
伊のエチオピヤ併合に実質的承認を与へた事は独の旧海外領土返還要求と思ひ合せて暗示深いものが
ある。

     (C) 伊のエチオピヤ併合

 聯盟が伊の石油貯蔵量を測定してゐる間に、伊の科学的武器は疾風迅雷の勢でエチオピヤのゲリラ
戦術を破り、五月十日伊はエ国併合を宣言した。而して七月四日聯盟は同月十五日より対伊経済制裁
を撤回するの決議をなし、同二十七日英国も伊エ紛争に備へた地中海相互援助協定を廃棄した。
 対伊制裁の失敗は淘鵜鹿次の條約達反を傍税し敢て之を匡正ぜんとしなかつた英駒の態度を不満と
した怖固が共の封伊幾淋封銘主唱ほ快く合流しなかつ陀乙とも一つの原因だとされて居るが、金融泣
に超淋封鎖に於て兄串な統榊を示した聯盟の制裁が最後に失敗したのは舶係糾問に耳事制裁まで行く
批のなかつた為で、禽時の英外相ホーアは此の郭に鵬し慧Hに於て九の如く不平を詐へて尉る0
 「英岡は自固の防架ほ鞘する限り伊の成哺ほ驚くものでない、然し他の譜飼の援助なくしイ二固
と二呵との戦牢となれば聯盟の存在は無意味になる、然るに今や他の聯盟笹岡は一隻の軍盤も一重

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の機械も一人の兵士も動かさずして察虚な抗議に満足して居る。聯盟諸国の協力なくしては集周的
保障は不可能で参阜、満足なる和平的解決を得る乙とも出来瓜0他の聯盟諸国が五.Tセントの協
                        ヽ ヽ
カをなして、可ハーセントの講和をかち符んとするのは無地で参る。」
乙れも禁札加約昇十大條の不備に基くもので為るとい・lで、串礎後は専ら聯盟の改組が要求さ
れ、十〃八nの聯盟組合は秀貝禽を設けて聯盟改糾問也を研究粥奄する決試案を採種した。
伊の外交的聯利が地中海に於ける革事的施設、殊に航嬢械∽驚異的敬澤にも原因し英も乙れには躊
捕ゼざるを祥なかっ托乙とは海軍の権威バイクオーク氏なとの述懐してゐる所であるが、それが馬か
英固は六月に禿り地中海に於ける陸海撃衰の箪拳闘偶に竹協定を締結ずべく伊と交渉を開始した
が、乙の耕は地中海支配に閲し伊が英の強敵としてその地位を確認された1とを意味ずる。乙れを六
月1七月の巧ソトルー曾帯に依るダーダネルス海峡の帝武装及スペイン内乱に依るイベタア牛島の
替佐と料地℃て考究ずる時は、一九三六年は地中海の均勢に重大な異串を生じた年で為る乙とが、一
層明確化ぜられるで参らう。
     仰 モソトルー合議
粍の帯革嘩ライン進駐、壌の帯革備故に伊の千国併曾等は所謂欧洲現状打破組が何れも條約又は
規約の拘束を股し一方的意思を以て思ひ切つた行動に出でたもの在るに郵し、土耳舌が合法約手段ほ
ょり一九二三年のローザソヌ條杓改訂を掟試し、関係列飼合意の上でダーダネルス海峡帯武装を賓現
するほいたつた乙とは、一般から同情と好威を以て迎へられた。モソトルー禽靖は六月二十二日から
七月二十日迄開催され種々の超絶は参つたが兎に角協定の成立を見た。その聞蘇紙ブタクダ及イズ
ヴエスチャの如き革二不平が空トい論評を加へたが黒海治樺圃軍艦のダ海峡航行自由に倣って最も大
きな利益と希親を輿へられたものは奉ろ蘇聯で為り、英としては蘇聯の地中海進出を甘受した乙とは
菩痛で参つたらうが、他方土固との港携策を忘れヂ、モノトルー合最中も轡ヱず土耳台に好意を示し
更に十二月十六日より倫敦ほ於て英土海軍交渉が開始の運びに覚る土樽へられるなと英土接近工作は
‥江日されてゐる。
     求@俳蘇提携と弼伊の接妃

 彿蘇相互援助條約は一昨年五月調印されたが、其の後偶の一部には同條約ほ対する強い反対が参り、
北准手積は舷梯しなかつた。漸く;月に至つて、俄講骨に於て批准討耗が開始され、二月未下院を通
過、更に三月十二日上院の費同を得て、同月二十七日批准虜碍を見た。
 斯くして完成した偶蘇プXツタほ封杭して、淘伊の接泣が徐々に貨現したのは昭和十】年の欺洲政

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局を語るものゝ見逃し神ざる賽で為る。
 即ち七月狗塊湘岬間に協定の成文を鬼たのは、狗伊接近の第一少で為り、次いでスペイン内乱を疏
つて南開の関係は一簡緊斌となり陀が、几然十月伊の補年外相チアノ伯の弼沌訪撃ニなり、狗伊の
フ丁ツyTデXックは一段と強化されたと倖へら札た。
 他方、一時野泡に傾いてゐた汲蘭は神び仰との槻係を改薄しっゝ為る趣が悌へら札、仰蘇封澗伊の
封立には踏絵ゼる雄図の利餌褐Wが織り込萱れて、今後の聴展は雑々に漁師し符泊肌態である。
     椚 スペイン内乱と人民戦線封ファッショ・ブロック生後化
 燭伊のフ丁ツy寸北岡戦線に封托して一九三六年の歎洲にヲ、、ソテルソの希求ずる人揖戦線が漁想以
上に奏効したのは河那牙及柵蘭何人民職線内閣で参る。前者に存つては二月十六日及三月一日の第二
同絶頂畢の結果一般の期待土地切ってわ冤一些一、中央六五に対するお翼二六六と云ふ絶対渦牛赦を
占むる人民戦線派の大勝に挿し、九瓢兆和耗骨頂アサーエア内閣の成立を見光。七月十七日夜考Xッコ
駐屯耳の蜂火によつて惹起されねスペイン内乱は煉原の火の如く燃え接がり、政府耳の不利に於て
戦闘宮城は馬徳里墟郊に締少されたが、九月例日現政戚カメワエー内閲成立に際し、従来閣外に在つ
た兆錐蕉に射し文相及農相の二椅子を輿へ允乙と、フランシスヲクルゴ・カバ,エー骨相がスペイy
のレー●【ソと驚されるお翼去mである乙とは注目を要する。次に四月未より五月初頭に亙つて行は
れた悌堵絶選挙の結果も所謂ラサンプル†ン・ポデェレール(人民戦線)のグループ三八六名、政府反
封減ニニ二名といふ閃きを生じ、前老の中兆蒸米は社務の京より一躍七十二名といふ驚典的凝進を
示した。人民戦線内聞甘和レオン・ブルーム氏が一九三川年未以衆コミソテルソと第二インクーとの
提携工作促進ほ常り彿師代発として活躍しね九蕎士で為る乙とはカメブエX戊と対比して興味参る
封照で為る0
 索々人民勒線運動は反フ;yミ反戦運動として接萌し、従ウて彿蘇封狗換伊の抗争を惹起すべき必
車的東国を包激してゐたものでは為るが、乙札に油を跳ぎ尖鋭任したものばスペイン内乱であり、世
界の観聴は内乱そのものよりは狗伊対価蘇流節に蛇がれるに室つた。唯追に備は白岡の内乱参加によ
り歎洲第二次大戦を誘発すべきを惧れ、八月一日を以て封西不干渉を、越えて同月六日封西武器輸出
軸M止を捉耗し、英の費同により九月九臼より倫敦ほ不干渉賓施間際委員骨を開催し<乙れを賓践的な
らしめたに反し、蘇聯は飽く迄スペイン人民戦線派援助を要望し、十月七日蘇聯政府は公式コムミさ
一−ケを以て狗伊礪の干渉寄焚に射し現地調査が行はれない限り不干渉委員曾より脱退する旨の牽引を
萌して委員曾を紛糾ゼしめた。
 他方悌ほ於てもブルーム官制の中立様妨にも拘らす預ぬて封西不干渉膚東を主張ゼる兆薦篤は十一

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月十喜口の人民戦線参加担沢代拳骨靖に封河式鐘拓杓回の軌警汚し、祖望H淡の自由意息に委
芸乙と左つ宗、概還では1れょ旦光九月八日より詰H是エエールンベル〆に開催さ仏陀第八
田ナチ美食の蛸上、モラI、7吉ベル〆及グッベルスの各嘉がユダヤ耐、ポルyェサイズム
の軋娩、打倒北耗主義等矢松早の柁射を搭ゼかけ、蒜蘇弼図交断絶さへ樽へられ蒜で彗た。
     引 金本位ブロックの崩壊
              ′■.\
世界の観線が絶品いて動乱の閑スペインの職場と椰蘇卦狗伊の堆硯壇日に集小されつ・雪た眞
穴小に於て九月二十六H午前一時彿桝政仰が突如フラン貸切↑轟を公衆し、同時に共水俳三大貨幣
の安尤を周らんとする彗協軍が夙にお三例政肘岡に成立してゐ平乙とを韓表し陀のは、仲人民戦線
巾糊が成立前後堺準横合雲雷乙れを不漁し、殊にフランの卒憎切↑は徒水ファッy宗財閥の要望
覆りとし<政府の友準Kる兆蕗真の極力壌封し1ゐた所で雪た蒜に、お不審打ちは歓洲列国の意
外とする所で為つた。
 フラン卒個苧げの波紋は忽ち輝大し、瑞西のフラン貸、伊太利のクラ貸を始め和蘭、ラトゲィヤ、
チエッコスロヴ†キア、自耳寒等も切下げに浪随し、越えて十月十音に東り更に発光埋二瞬には金の
自由交換に閲ずる協定成立が執渡され、三園は同時に協定の内容を公表した。
 何十一月二十三日に責つてモルグソソー米同大殖長官が白耳義、和蘭及瑞西がさきの英米悌貨幣協
定に正式に加入せる旨を韓表したが、乙れは兆乃至接が依然として固貯金融界に滑臨ぜる乙とを示ア
ものとして、見逃すを符瓜。

              )
       U 大陸譜小‥圃の動向
            ′一.一\

 大陸群小諸岡が樽統的大国依存主義を館とせデ、何れも期ゼずして自主狗徒、自力更生に向つて邁
進した乙とは乙れ亦一九三大年度軟洲外交を特色付ける材料たるを欠はない。群小渚周の堺起は聯盟
の威信失墜、英彿の浮足に失費し托結果で参る乙とは撫論で参るが、寄ろ狗伊の男猛果敢な直接行動
に刺戟さ札奮起したと触るのも興味深き考嶽のやうに恩はれ<なら瓜。
 先づ塊地利及洪牙利の政治工作を鬼るに伊塊洪三岡姦は三月二十日X−マに開催、二十三日】九
三川年三月十七日のVI†満足専を療充し、〆1ニープ問題に牌する限り三周の協力を約兎し、三個
の試足音に調印した、次いで凹月一日塊同政府は一般徴兵令を璃骨に提出して即決、五月十三日筋三
次yュシ三ック内聞成立ずるや七月十一日維納及伯林ほ於<襖狗粥民礫固豪の接堀を目的とする現壊
協定が韓表され銭に一九三川年七月ドルフス操同首相の暗殺事件以来狗壊岡に横はつ<ゐた陰影は取
Y・除かれた。

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次いで小協瀦開(チエッコスマザ丁キア、ユーゴースラブィア及ルー†エア)及.ハルカソ協商開三園、
〃開ほ土耳巾及希胞を加へる)では羅同ブカレストに開かれた小協純岡元骨身合に於<狗のラインラ
ンド神武購等ほ封する炎仰の態度に蝕み小協商園狗自の結兎を試しねものと見られる。
他方群小派娼の螺碇形逃動の抑に雌伏し<ゐた白耳弟は十月十川日に禿み突如として巾ふ几政策還元
の貰・‥を韓表した。即ち川闘盈碑は特に十川日の朗読に締御、徴兵制庇及第仙充塘に関する刺評を崩
は多、白耳禿の小立政兜樹立を宜布された。該宣言は悌ソ同盟、休閑兆稚糸の地底に依る戦革帯凝の
危険防止、聯兇その他の朗際安灸保障横柄に封する不信任を暗示したもので参る、乙れに封し英、濁
粥周が比性的冷押を拙してゐたに封し、悌では中軟、東欧及バルカンに於ける窄繋地を排つた折柄、
小開閉に中立政策が蜘まり殊に汲蘭、凝梅尼の休閑より離反する乙と為るべきを憂慮する論調湧然
と起り、乙れに反し和蘭及瑞印南駒が中立ブロックの延長を祀指し符節を為したる如き三幅封の興味
多い封象を現出したものだ。然し何札にゼょ大陸群小諸圃が何れも大開租むに足らずとし、重しけれ
とも一城の主と云ふやうな悲批な心境に持向、群雄剖榛時代を席現したことに関しては更托その動機
を亘納に瓦X瞼討すべき必要が参ると思ふ。
    凹 モンロー主義の更生
 軟洲に於ける干弐騒擾を封岸の火災親し、終始中立堅持、只管新宅ソX−主義の虜調整に専念し、
前記封欧金融粗貸協定、米支銀協定乃東は五月六日米偽及同十人日米芥蘭互東通碗協定調印、或は五
月二十一日の日本綿布に射する陶枕凹割二分引上げの韓令等経済的事由に基くものを除く外、米固が
一九三六年度に於て欧胡の政治的紛率に一切公式山彗二日を差接えねのは民主、典和南東とも十一月三日
の大統領選挙戦に封アる作戦準備に忙殺され、渉外事項によつて精力を分散さるゝ乙とを出家るだけ
自制した名で参る乙とは社務の例を想起するも略†推察し得る研で為らう。
一月三日上下雨舵外交秦貝長は夫々中立法尭を両院に捻出。;月十二日上院は現行中立法延長秦を
可決、同十七日下院も乙れを一九三七年五月一日道程長する決試案を可決、次いで十入日上院は下院
法尭を可決したのでルーズゲェルト大統領は二月二十九日該秦を裁可すると非に一昨年十月五日附布
告と同趣旨の布告を卑し、直ちに伊エ南開に適用する措置を執り、越えて八月十一日国務省はスペイン
内乱に対しても該中立法規の梓紳を痛棒援用すべき旨の八月七日附在外米国公館宛泡達を公表して、
その態度を旗峨鮮明托した。
 期待された十一月三日施行の大統領選挙に於てはルーズダ壬ルト氏はグ丁−宅ント及メーンの雨州
を除く凹十」ハ州に於て勝利を得米師意政史上未曾有の大勝を博したが、殊に従衆典和蕉の金域揚池と
冒されたペンシルヴ丁−【ヤ、ミウイングランド藷州滋にタyドソ氏ノ,クス氏の膝下たるカンザス

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及イブノユ一州碑を傭招したのは一般に穐想外と日された。何聯邦上下院の選歩も民主爺の大勝に
押し、その新分野は上院に於<は租雑の民主鹿六九封非和演二こは七五封一七となり、下院に祉つて
は比主凍土〇八封兆和親一〇〇より三二八封九〇(他に骨落未定七)となり、故に文字始りの氏主演共
金柑代を現出し、米紙は敵味方なく乙れをル大統仰の明朗なる個人的人格が然らしめた屯ので為ると
耶和しねじ
 大洗和布逃の柴冠を角ったル大統領は待望の汎光年和合講に臨むべく汎米局理番長たるハル圃務長
竹を北韓ぜしめ、肖らは†一月三十日軍艦インデアナボブスにてブエノスアイレスに到著、翌十二月
−Hの胴骨式に州畑中和の使徒としての朗な第一卦を放った。本曾拭を劃期として如何なる新平和政
策が生れ出づるで鼻音1ノか、利日すべきものがあを「ノ。
 けだしル大統餓は】月三十日中朔米各圃元首に射して汎米骨粥開催に鰍クる拍術胱を敬し、乙れに
封アる具蟄なる熱意はさきに二月十五日胡材然丁大統餓宛韓迭ゼられた親審の公表によりて明らか托
され、次いで三月十川日米が.♪ラ〆丁イ図現政府殊怒を断行し托のも刷嗣をし<識姦参加を可能な
らしめんとずる希敦を表示したもので為る。何れにゼよ、造次曾講がル大統領の叫朗外交に拍車をか
けられ、金光州l一十一ケ固の代表を廓鹿し、少くも汎米新平和機構の結成及米州諸開聞の朋枕休職若
くは互激浪淘協定舶の形成の〓鶴目に離しては何等かの牧樺を得るに至るべき乙とが早くも期待され
一てゐる0


             )
      け 日濁防共協充と西安事変
 聯盟脱退後の帝埼外交が笛邦協和を確石とし米胡の安定勢力叱るの賽を舶現して世界平和に寄輿
すると非に而も水だ偏安して友邦の紀を疎かにずる租のでなく、殊に蘇支南固に封しては善隣関係
を不動の開発としてゐる乙とは内外人の碑しく恕むる朗である0
 完三大年に於ける封蘇支関係を橡討するに蘇淋及沌豪固塊方南に於て相手方の挑発により卑生し
陀紛争事件鮎ほ支郷側触…警察状態を故蕗した排HタX行岱は何れも十政件を下らデ、日掬防非協定の
成立、接光岡坦幹によつて拍沌をかけられ封蘇支外交は和踵写止楷みを飴儀なくされつゝ為つた虞、
偶ゴ斉十音炎乾した河安雄攣旦特棉としイ二部籍にする宣樽を除き耽界の輿弘蒜に支那側ほ放
て漸く我方の公正爵常なる智芸具意を払融解する仰山の持朗して水たのは研かその意を神たものと云
ふべく、唯蘇聯側に於七億然として執拗に日狗協定に糊口し<懸案虞理を退廷しっゝ為るは甚だしく
遭械とずる朗で為るが、乙札引時の未椅的症舵として終るべき乙とを信じて疑は瓜ので為る0けだ
し蘇浦及浦嘗岬竣閃増刊鞍に関しては、考る十月二H外妾御代未完の満洲盤到著に依り漸く浦葺合
彗甫曙光を見るに車す、8蘇何に暫しも1札と粕前後して十月に守ノ南開代表者の折衝により痛洲

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同代表奔貝の加入、岡墳劃定雄に紛争底理秀員設溝等に閥し交渉が進められつ・ある。新漁紫條約は
糾印牌定巳の前日に光り蘇側は倒内手嶺の未了を刹として俄然態度豹攣、一九三六年来を隈放とずる
現行協定の執限満了を呼ヱ故意に正式調印を退廷ゼんとずるイスチェアを示ずに光り、北方としては
ポーツ†ス條約鮎にH蘇些父樹立に閥ずる兆本惟約に破る漁業碓確保に細し、あらゆる梯利行使の白
山を考臆しっゝ蘇州の托省を促ず一方蘇側を祝いて不収化現行協定の一ケ年延期を承維ぜしめ托。
 日椀協淀の意義は曾時外務省より韓衷ゼる弊制を熟領すればRら稗然訳解し得べく、偶そ同協定が
琶蒜警渦い托のは、川品桝慧非榔盟買で雲量、巾慧一フィンランド空と是雷
                                                                            ′l\
                            )
満洲林埠に際し執つ光自術稚耗を混渚ぜる乙と、ハコミソテルソの兵科探究に組織を誤りたる乙と、
                             ′lヽ
→猟が撒洲に於けるフ;シ・・デXックの主役姦じ<ゐるJと等より殊丸に協定の政治的意養を蝶大
(                   )
せる組織過多から敬生ゼるものであつて、特ほ最後の一一に於ける理由から日本のフ丁ツy†・ブーツク参
                               (
加を杷菱する向きは秒くない情勢が看取ゼらるゝも、南部無比の我が麟傑に瀬みれば此の種の懸念は
忽ち解印するでみらう0
 攻に日立絹係を舶みるに支那側確度かの非合法的排日行為にも拘らず、有田大使は三月十大⊥
九日に瓦さ張群外交部良と尚変調盤に関する自由曾談を瀞げ、川越大使は十月入日蒲介石氏と曾談し
煎るを手始めに娘群氏と前後入同に瓦鼻固変調盤に隠し交渉を重ねつゝ参つね虞、†一月十四日席末
問題に薄口して支和側は俄然前言を葎すが如き口吻を洩すに室つたので、十二月三日の川越、張井倉
敢を以て一席打ち切り、支那側の賓行を厳重党規する乙とゝなり外務省は十二月十日附の黎明を凝し、
事態の兵相を公表し允。
 乙れょ鼻先耗東問題の発生するや外務省は十一月lTT一日附曹局淡の形式に於て「内意台軍と席題
畢との衝突に関しては帝同は金触距`ゼざる』日を公飴牽明したるにも拘らず、支那側の諒解を徹る
に東らず偶モ本件に閲聯し、啓介石氏が張串良氏に封して剃匪討伐督励の目的を以て西安に赴きたる
虞、十l二月十二日突如として張拳良氏磨下の著に遭ひ軌丑祈さるゝに車りた。
 西北剃匪副司令張革良氏が、十二月十二日、常時河安滞在中で参つた軍事費貝骨委員長発行政院長
煎る蒋介石氏を監察しね乙とは、最近の支那に於ける一大事件で参つた。張氏は、とうしてか、る非
常手投ほ出たので為るか?それをハブキクさゼるためには、一九三三年の熱河戦にきで遡らなければ
なら瓜。乙の役の失敗に関して、責任を取らされた張串良氏は、長辛店に於ける蒋介石氏との倉見に
於て、許腹を切らされ托形となつて下野外遊したが、一九三凹−五年の藤雑草命に於て、政界への
復活の概骨を見出し、蹄関して武漢の地盤を輿へられた。鮨るに蒋介石氏側とし<は、その支那統
】の渉樋を進めて行くためには、自己の練糸で夜い畢隊を、漸次整理ずる方針なので、張氏摩下の畢
隊に勤して、徐々に歴浪を加へ(謂騙坤詑詣報は券処煬ャh謂肘掛)、終に一九三五年十月に車つ乍、張

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氏を南北劉睦剖司令に任じ(榊胴頂)、四安に司令部を設置さぜ托。張氏はやむなく乙れに従ひ、同月中
旬武沌を引梯ひ、魔下軍隊とゝもに眺何に移駐した。
 桝雑乙ゝに一年、兆窪筑討伐の困難に加ふるに、中央からの給養も充分でなく、曾りて些旋を持つ
た水北軍屯、今や施朋打ち枯らしたルムペン革となり、不平は全軍に充満した。− 乙の間隙をねら
つて、水のごとく浸洞して凍た亦化の魔手で参つた。
一九三五年七−八月のヲ1、ソテルソ第七同大骨及同年八月一日附を以て額ゼられた中尉北髭真
の『抗日救閑宣言』に依つて、コミンクルソ及び中朗共産賞は、支那に於ける抗日人民戦線結成の新戦
純を碓立したが、乙の戦楠の蕗行に普つて、彼等が特に重親したのは、『下層戦線統一方策』と『浸潤
工作』とで参つ陀。帥ち、目標とする各階層の内部に喰ひ入り、自己の真意を懐徹して、巧みに環境
と同化するが如く見せかけて自己の欲ずると乙ろに誘引ずべく(凋轡、特に各階層の下屠部に注目
し、下層を統一して漸次その上屠に及ぽずべきだ(浦和撃といふのである。映西、甘粛に耗る非産軍
は、一両討伐革の討伐を受けつゝも、絶帥宅浄水の傾尊下に怠りなく乙の方針・戦錦二工作を超行し
陀○かゝる『士兵工作舞柑粥触砧)は、東北軍移駐後、間断なく遊行ゼられ、争議ならずし<、東北軍
下野の赤化ほ成功したものゝ如く思はれる。といふのは、今回の西安事担後二三日日に、南京政府の
其要人が、支那新聞記者に封して、左の如く語っ<ゐるからだ。
 「今岡の事件は、決して実数的のものではない。一年以前から、そのきざしが参つたので為る。苗
勃然、粟又文なといふ共産系分子がゐて、盛んに容共抗日を叫んで、軍心を惑はぜてゐたのだ。王樹
翰や美徳塞が乙れを知つて、畢良を諌めた乙とも弟つたが、彼は面従腹背的態度を執ってゐたらし
い。滞委員長も乙の乙とを知つてゐたが、彗だ拳良を信デる乙とが厚かつたし、むしろ乙れを矯め直
すつもりで西安に行つたので為る。』
 響子二一十五日に至つて蒋介石氏は突如稗放され、張尋良氏は責任を負って下野外遊する旨倖へら
れたが、事件の飴震は今何枚彗らヂ、果して何度ほ落書くかの浄測は現在は不可能た近い。帝国政府
としては今後弗封支内季不干渉主義を原則としつゝ政局の推移に注意を怠ら瓜で参らう。
 最後に東亜の風雲寸刻も楽観を許さ瓜罪脚気に在つて清洲囲が凹月三十日満淘浪純協定の調印を了
し、六月十日治外法権の一部撤厳に関する日浦新條約を締鵜ずる外、十二月二臼附日伊公文交換に倖
ひ伊が寄算上浦洲圃を承艶するに至れるが如き同国の朗際的地位向上を裏審きするもので為つて、友
邦の一馬同慶に堪へない0