第二号(昭一一・一〇・二一)
電力統制の必要性 逓 信 省
観艦式に就て 海軍省海軍軍事普及部
西班牙内乱を繞る欧州の政局(二) 外務省情報部
観艦式に就て 海軍省海軍軍事普及部
一、概説
本年海軍特別大演習は、本邦南西方海面に於て、八
月一日以来満三ヶ月に亘り実施せられつゝあるのであ
るが、其の最終作業として特別大演習観艦式の一大盛
儀が、十月二十九日阪神沖に於て挙行せらるゝこと
となつた。今次観艦式は帝国海軍創建以来、実に第十
七回目であつて、畏くも 今上陛下御親閲第五回目の
観艦式である。
今回の観艦式は、所謂移動観艦式であつて、従来多
く行はれたる碇泊観艦式とは、大いに趣を異にしてゐ
る。即ち一部特務艦等を除き参列艦船の全部が、陣形
を整へて威風堂々御召艦の側近を航過し御親閲を受け
るのであつて、今回の如き大規模なる移動観艦式は、
帝国海軍としては真に未曾有のものである。
二、観艦式の意義
我が国の観艦式には、今回の如く特別大演習の際に
行はれるものと、国家大典の場合に行はれるものとの
二通りあるが、孰れも 畏くも 大元帥陛下が、親し
く帝国海軍の軍容を御親閲遊ばされる御儀式である。
帝国海軍の将兵は、御親閲の光栄に浴し得たるものは
勿論、海外警備其の他の為此の盛儀に参列し能はざる
ものも、斉しく此の盛儀に際し、光輝ある帝国海軍の
歴史と伝統とを回顧し、其の有する重大なる責務に対
し益々盡忠報國の念を堅くし、至誠一環護国の大任を
全ふせんことを誓ふ次第である。
三、観艦式の歴史
今より五百九十六年前、皇紀二千一年(西暦千三百
四十一年)、英国「エドワード」三世が自ら艦隊を率ゐ
て英仏戦争に出征の砌艦隊の威容を視閲したことがあ
つたが、これは抑も世界に於ける観艦式の歴史的起原
を為すものと認められる。
我が国では明治元年三月二十六日 明治天皇御親閲
の下に行はれたる大阪港口天保山沖の観艦式を以て嚆
矢とする。当時の参列艦船は各藩より参列したもので
あつて、肥前藩の電流丸、肥後藩の万里丸、久留米藩
の千歳丸、長州藩の華陽丸、芸州藩の万年丸、薩州藩
の三邦丸の六隻、総計噸数二、四五二噸で、海総督軍
聖護院宮が電流丸に御座乗指揮せられ 明治天皇には
陸岸の叡覧所から御親閲遊ばされた。爾来六十九年十
六回の観艦式を経て今回茲に各種最新鋭の新艦を加
へ、移動観艦式を挙行せらるゝに至つたのである。
今日迄に行はれた各観艦式の概要を表示すると左の
通りである。
回次 | 年 月 日 | 場 所 | 名 称 | 参加艦船隻数噸数 | 航 空 機 数 | 記 事 |
一 | 明治 元、三、二六 | 天保山沖 | 観艦式 | 六隻 二、四五二噸 |
移動観艦式 | |
二 | 明治二三、四、一八 | 神戸沖 | 海軍観艦式 | 一九隻 三、二三二八噸 |
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三 | 明治三三、四、三〇 | 神戸沖 | 大演習観艦式 | 四九隻 一二九、六〇一噸 |
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四 | 明治三六、四、一〇 | 神戸沖 | 大演習観艦式 | 六一隻 二一七、一七六噸 |
||
五 | 明治三八、一〇、二三 | 横浜沖 | 凱旋観艦式 | 一六六隻 三二四、一五九噸 |
||
六 | 明治四一、一一、一八 | 神戸沖 | 大演習観艦式 | 一二三隻 四〇四、四六〇噸 |
潜水艦始めて参列 | |
七 | 大正 元、一一、一二 | 横浜沖 | 大演習観艦式 | 一一五隻 四六〇、八二五噸 |
飛行機 二 | |
八 | 大正 二、一一、一〇 | 横須賀沖 | 恒例観艦式 | 五七隻 三五三、九六五噸 |
飛行機 四 | 移動観艦式 |
九 | 大正 四、一二、 四 | 横浜沖 | 特別観艦式 | 一二四隻 三九八、八四八噸 |
飛行機 九 | 拝謁式及勅語伝達式 |
一〇 | 大正 五、一〇、二五 | 横浜沖 | 恒例観艦式 | 八四隻 四七二、二五四噸 |
飛行機 四 | 移動観艦式 |
一一 | 大正 八、 七、 九 | 横須賀沖 | 御親閲式 | 二六隻 八六、〇一三噸 |
一、戦利潜水艦七隻 を含む 二、駆逐艦、潜水艦 は連動して親閲 を受く |
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一二 | 大正 八、一〇、二八 | 横浜沖 | 大演習観艦式 | 一一一隻 六二四、一八〇噸 |
飛行機 一二 | |
一三 | 昭和 二、一〇、三〇 | 横浜沖 | 大演習観艦式 | 一五八隻 六六四、二九二噸 |
飛行機 八〇 飛行船 一 |
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一四 | 昭和 三、一二、 四 | 横浜沖 | 大礼特別観艦式 | 一八六隻 七七八、八九一噸 |
飛行機 百数十機 | |
一五 | 昭和 五、一〇、二六 | 神戸沖 | 大演習観艦式 | 一六四隻 七〇三、二九五噸 |
飛行機 約百機 | |
一六 | 昭和 八、 八、二五 | 横浜沖 | 大演習観艦式 | 一五九隻 八〇六、〇〇〇噸 |
飛行機 約二百機 | |
一七 | 昭和一一、一〇、二九 | 阪神沖 | 大演習観艦式 | 約一〇〇隻 約五八〇、一三三噸 |
飛行機 約百機 | 移動観艦式 |
四、今次観艦式
次に今回行はれる観艦式の大要を述べることゝしよう。
(一) 参列兵力、指導官等
御召艦 比叡 | |
御先導艦 鳥海 | 供奉艦 愛宕、足柄 |
御召艦の東側分列行進艦隊 | 戦艦 四隻 |
航空母艦 二隻 | |
巡洋艦其の他約五〇隻 | |
御召艦の西側航進艦隊 | 戦艦 三隻 |
航空母艦 一隻 | |
巡洋艦其の他約四〇隻 | |
分列航空部隊 | 数百機 |
指揮官等 | 大演習観艦式指揮官 海軍大将 高橋三吉 |
同参謀長海軍少将 野村直邦 |
|
大演習観艦式事務委員長 海軍中将 塩田副武 |
|
外に分列航進せざる参加艦船 | 水上機母艦 一隻 |
特務艦 三隻 |
(二) 式場図、分列図
別図第一、第二の通である。
(三) 観艦式の光景
当日午前八時五分御召艦比叡は神戸港内浮標解纜、
港外にある御先導艦、供奉艦は登舷礼式を行ひ、各艦
が一斉に発射する皇礼砲の殷々たる中を嚠喨たる君が
代の吹奏、天地に轟く万歳の祝声裡に御召艦は金色燦
たる天皇旗を檣頭高く飜へして出港、港外に於て新鋭
一万噸巡洋艦鳥海御先導をうけたまはり、愛宕、足柄
之に供奉し、概ね針路を南に定め厳粛なる御親閲の航
行を開始する。
此より先、観艦式指揮官高橋陸軍大将の率ゆる全艦
隊は、前日来碇泊してゐた淡路洲本沖を抜錨し、戦艦
長門を先頭とする東側の艦列と戦艦陸奥を先頭とする
西側の艦列は、式場図に示してある様な隊形を整へ、威
容海を圧しつゝ式場に進入して御召艦の両側を反航分
列航進を行ふのである。而して各隊は御召艦に近接す
るに従ひ、各其の指揮官の令に依り登舷礼式を行ひ皇
礼砲を発射し、「君が代」の奏楽又は吹奏を行ひ、御召艦
御航過の際乗員は一斉に万歳を三唱し、御親閲を受け
る。斯くして隊列の長さ約十三浬に亘る艦隊の御親閲
が概ね終了する頃、数百機の航空機は南方の大空から
爆音勇しく銀翼を連ねて空の護の威容も頼しく、御召
艦西側上空を通りつゝ御召艦に敬礼を行ひ御親閲を受
ける。
此の間軍令部総長玉座の側に在つて参列部隊の各指
揮官の官氏名其の他必要なる事項を奏上せられるので
ある。
御親閲が終ると御召艦は反転して式場錨地に向ひ、
一方御親閲を受けた全艦隊は順次に編隊の儘逐次阪神
沖碇泊式場錨地に投錨、投錨と同時に満艦飾を行ひ御
召艦の御入港を御待ち申上げ、御召艦が其の附近を御
航過の際逐次登舷礼式を行ひ、「君が代」の奏楽又は吹
奏を行ひ、万歳を三唱し、大演習観艦式指揮官の旗艦
長門に傚ひ一斉に皇礼砲を行ふ。斯くて御召艦投錨
後、大演習両軍指揮官以下各級指揮官及統監部員を御
召艦比叡に召させ給ひ、大演習に関する御講評を行は
せられ次に 勅語を賜はるのである。
午後零時五十分頃御召艦竝に鳥海、愛宕、足柄、陸
奥及加賀に於て、大演習関係高等官竝に陪観者の一部
に対し午餐を賜はるのであるが、御召艦以外の五艦に
は特に皇族を御差遣あらせられる。
賜饌後御召艦は午後二時四十分抜錨、駆逐艦時雨、
白露供奉、横須賀に向はせられる。この時御入港の場
合と同様の儀礼が行はれるのである。日没と共に軍艦
旗は降下せられ、満艦飾は撤せられるが、暮色漸く濃か
となる頃、軍艦は電灯艦飾を行ひ、探照灯を点ずるこ
とになつて居るから、阪神沖の海と空とは為に不夜城
を呈するであらう。
而して明治元年同じ大阪湾で行はれた第一回の観艦
式の参列艦船が六隻二千五百噸足らずであつたことを
回顧するとき、我々国民は海洋国日本躍進の表象たる
今日の帝国海軍の威容に接して誰しも感激と矜持とを
新にすることであらう。此の海軍は我が 皇室の御稜
威と国民の偉大なる努力と我が海軍将士の義勇奉公と
に依り整備発達し、平戦時を通じ帝国の国運隆昌に光
輝ある寄与を為し来つたものであるが、今日帝国内外
の困難なる情勢に鑑み、我々は此の盛儀に際し只々そ
の壮観に快哉を叫ぶのみでなく、帝国の発展に対する
我が海軍の使命に就て認識を新にすべきではあるまい
か。